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そばがき


 ソバは、たんぱく質、脂質、ビタミン、ミネラルの含量が米や小麦に比べて多いのが特徴です。
 ところが、これらの栄養素は、大半が水に溶けやすい性質を持っているので、麺(そば切り)にして茹でると、せっかくの栄養素の一部が茹で湯の中に溶け出てしまいます。しかし、茹でる必要のない「そばがき」にすれば、栄養素の茹で溶けの心配はなく、そば粉に含まれている栄養素をそつくりそのまま摂取できるというわけです。

 そばがきは、ソバ粉食の原型ともいえる食べ方で、古くからソバの穫れる地方では常食とされてきました。
そば切りが、江戸をはじめとする都市で大衆食として一般化したのは、江戸時代中期に入ってからのことで、農山村にまで普及したのも、同じく江戸時代中期以降のことと考えられています。
しかし、農山村ではその後も、そば切りはハレの日や客への振る舞いのための御馳走であり、ふだんは「そばがき」というのが普通だったと考えられています。

 では、「そばがき」がいつ頃から食べられていたのかとなると、はっきりしたことは分かっていません。「そばがき」にするためには、ソバの実を粉にしなければなりませんが、その道具としての石臼が農家の必需品として普及するのは、やはり江戸時代中期以後のことだといわれています。とすれば、農山村では「そばがき」とそば切りは、ほぼ同時代に普及した可能性もあります。そば切りは作るのに手間と時間がかかる。そこで、「そばがき」が常食されるようになったのではないかと推定されています。

 ソバは、荒れた土地や冷涼な地域でも収穫できることから、救荒(きゅうこう)作物として栽培されてきた作物です。わが国でのソバの記述の初見は『続日本紀』巻九の元正天皇の詔(養老6年、722年)ですが、この年は大変な飢饉で、ムギ(大麦、小麦)とともにソバの栽培を命令しています。

 時代ははるかに下ったが、依然として米などまともに食べられなかった江戸時代の農民にとつても、ソバは重要な食糧のひとつでした。その簡便な食べ方として「そばがき」が普及したのでしょうが、栄養面から見れば、非常に合理的な食べ方だったわけです。

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